2度あることは3度ある以上の経験者が言うのもなんですが

今現在、鬱により4度目の休職中です。備忘録と愚痴めいた事を書きますがご容赦願います。

閑話休題〜自己紹介そのニ

大学卒業後、当時就職氷河期と言われる中、地元の小売店に勤めることに。辞める人が大量にいることを見越してか、約300人の同期がいた事を後々に社内報で知ることとなる。確かに、私の一番初めに配属された所も男は私を含め5人、女の子3人だったが、今のところ私を含め二人しか残っていない。


配属前の研修は、繋ぎ止めと言わんばかりの飯会が2回あった後行われた。バブルが弾けた後ともあり、閑散としていた。後年、息子たちを連れて同じ場所に行ったのだが、その時には華々しくまだ残っていた家具屋がひっそりとしていたのはきのせいか。


その時の班分けは、男6人女の子1人だった。自己紹介の時に色々なテーマを分けられ、ざっくばらんに話して当時また振られたばかりと話していたら、女の子も振られたばかりだと意気投合。お互いに慰め合えて、付き合えば…と皆が茶化しているうちにいつの間にか付き合っていた…何このマンガ的な展開はと思われがちだが、ホントの話。


その後、彼女は身体を壊して辞めたものの私は、最初の配属先から当時一番大きな店→京都の店に二店舗転勤→店を閉店するので大阪に復帰→愛媛県に転勤。という流れとなった。


だが、なぜいきなり愛媛県に転勤かと考えてみたら2つ考えられる。
一つ目は、会社内のアンケートで転勤についてどう思うか?の問に対して「社命には従わなければいけないと思う」と今思えば、墓穴を掘り過ぎた返答をしたものだと後悔しきり。
二つ目は、京都から大阪に復帰する際に当時の京都地区の長に、「今帰ったとしても自分の部屋がない」と言った事かもしれない。現に親父の考えとしては、社会人になったら独り立ちをしろと暗にプレッシャーをかけられ、私が京都に転勤が決まると私の部屋を改造しようとしたぐらいである(事実、私の持っていた本を処分しようとしたが、母や祖父が止めたので少しの被害で済んだが、捨てられたのは事実)。辛うじて寝床はキープされたものの帰る場所がないのには変わりない。現に大阪に帰ってきたものの、家から通えるのにも関わらず一ヶ月以内に家を探せと言われ、ここら辺りがあったのでその場所に引っ越ししたのも懐かしい思い出に過ぎない。


その2つが重なり、私に白羽の矢を立てたのだろうと今も思う。それが、徐々にボディブローのように鬱になろうとは本人ですらも気づかないのは無理も無い。